今日で東日本大震災から丸6年。
少しだけ当時のことを振り返ってみようと思う。
2011年3月11日 14:46
震度7の大きな揺れ。これがのちに「東日本大震災」と呼ばれることになる巨大地震である。
家族は、全員無事だったが、宮城県気仙沼のぼくの実家は跡形もないくらいに津波に流された。
家を返せ、皆の命を返せ
自然災害、誰かが悪いわけじゃない...頭ではわかっていても、毎年3月11日を迎えるたびに、こう思ってしまう。
震災当初、「数年経てば変わってくるかな?」とぼんやり思っていたけれど、6年経ってもこの思いは変わらない。
ぼくが直接的に被害を受けたわけではないが、3月11日はセンチメンタルな気分になってしまう。
思い返せば6年前、宮城県の山沿いに位置する「蔵王町」で働いていたぼくが、気仙沼を訪れたのは震災発生から2週間後のことだった。
父から「お前も気仙沼のことが気になるだろう」と言われ、母に会いに行くことにしたのである。
「絶句」とはこのことか
仙台市から気仙沼まで、車でおよそ2時間。
道中に広がる街の風景からは、震災のダメージが感じられるものの、車も走っているし「あの地震でも大丈夫なのでは?」と思っていた。
しかし、心のどこかにあったそんな余裕は気仙沼市内に入った瞬間、マジで音を立てるように打ち砕かれた。
気仙沼市内には瓦礫が散乱し、街のシンボルであった建物は、ただの「鉄くず」へと化していた。
家族の無事な姿を見て嬉しかったのは間違いない。しかし、それ以上に街の変わり果てた姿にショックを受けた。
また、「避難所」といえど、元は小さな公民館。100人以上の人が寝泊まりする空間では、歩くのもやっとだった。
ぼくが歩くたびに後ろで母が「すみません・・・」と言っている声が聞こえる。
母のそんな声を聞くたびに「もう帰る場所はないんだ」と思った。
生きるために逃げた
震災から数週間後の3月下旬、仕事を再開したぼくは、通勤中にふと変な感覚に襲われた。
「あの木にぶつかったらどうなるか・・・」
別に何かに悩んでいたわけでもないし、ネガディブなことを考えていたわけでもない。
けれども、会社に向かう車中、ふとこんなことが頭をよぎった。
最初は、「震災があったため頭が疲れているのかな?」と軽く考えていたが、気がつけば3月下旬~仕事を休職する9月下旬までほぼ毎日そんなことを考えるようになっていた。
いま思えば、完全に身体が発するSOSサインなのだが、当時は「仕事頑張らなきゃ」という思いが強く、ぼくはそんな症状をスルーしていた。
しかし、どんなに取り繕っても身体は素直である。
仕事を再開して半年経った後の9月下旬。ぼくは休職した。
そして、休職から数ヶ月後、ぼくは”パニック障害”と診断された。
震災が直接的な原因なのかは、未だにわからない。
でも、それ以来ぼくはネガディブな情報を徹底的に避けた。
気仙沼のことも、それまで悩んでいたことも、ネガディブなニュースも避けた。
いや、生きるために無意識に避けていたのかもしれない。
それでもやっぱり、伝えたい
「思い出したくない」と避けてきた気仙沼のことではあるが、震災から6年目を迎える今、ぼくのなかに新たな思いが強くなってきた。
『気仙沼のことを伝えたい』
一時期は完全に避けていた気仙沼のことではあるが、最近になって「しっかり伝えたい」という思いが強くなってきた。
「3.11」 テレビや新聞には「地震」、「津波」など、思い出したくない単語が飛び交う。
でも、気仙沼で暮らすぼくの家族、あるいは気仙沼で働く人々がネガティブな気持ちで日常を過ごしているかと言えば、そうではない。
そこには、「少しでも気仙沼を元気にしよう」、「日常にささやかな楽しみを創ろう!」と、暮らしている人がいるのだ。
ぼくもライターの端くれとして、そんな、”人の声を届ける仕事”をやりたいと思うようになった6回目の3月11日。
「気仙沼を元気にしたい」とか「震災を風化させない」とか、大げさなことは言えないけれども、東北の地が”被災地”を卒業するために、できることをやっていきたい。
ぼくは、正直まだ直視できない。けど、絶対に忘れちゃいけない。
— かじ@岩手のなす (@cl0025) 2017年3月11日
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